桐生市と繊維の関係
桐生市は奈良時代から織物の生産が行われていたとされ、1200年以上の歴史を持つ織物の町です。
古くから繊維産業が盛んであった理由として、以下の4つのポイントがあります。
1.自然環境と地理的条件

桐生市は渡良瀬川の流域に位置しており水資源が豊富です。
繊維産業では染色や洗浄に大量の水が必要であり清らかな水が利用できることが大きな利点でした。
また、桐生市周辺は山々に囲まれており、養蚕(絹糸を作るための蚕の飼育)が盛んでした。
これにより絹織物の原料となる生糸が地元で手に入りやすかったのです。
2.歴史的背景

桐生市は古くから「西の西陣、東の桐生」と称されるほど織物産業で知られていました。
特に江戸時代には、桐生織(きりゅうおり)と呼ばれる高品質な絹織物が生産され、全国的に広まり江戸幕府の保護政策のもとで桐生の織物産業は発展し、職人たちの技術が磨かれていきました。
3.技術力と職人文化

桐生市では代々受け継がれてきた高度な織物技術があり、これが地域の強
みとなっています。特に複雑な模様を織り込む技術や染色技術が発展しました。
また、明治時代以降には機械化が進む中で桐生の職人たちは新しい技術を積極的に取り入れ、伝統と革新を融合させた製品を生み出しました。
4.産業の集積とネットワーク

桐生市では繊維産業に関連する企業や職人が集積しており、原材料の調達から製品の加工・販売までの一貫した生産体制が整っています。
このような産業クラスターが形成されていることも、繊維製品が盛んに作られる理由の一つです。
ー「西の西陣・東の桐生」とは ー
昔から群馬県の桐生は織物で有名な町でした。とくに絹の織物が有名で、その品質の高さから、京都の「西陣(にしじん)織」と並ぶ存在として、「西の西陣・東の桐生」と呼ばれるようになりました。この言葉は、「日本の西側には京都・西陣、東側には群馬・桐生がある」という意味で、日本を代表する織物産地の両巨頭として並び称された表現です。
桐生の町の中心は商売のために作られましたが、実際の織物は周りの村(新宿村、川内村、広沢村など)で作られていました。これらの村は、今ではほとんどが桐生市に入っています。
この「西の西陣・東の桐生」という言葉がいつから使われていたか調べたところ、一番古い記録は1903 年(明治36 年)に出された会報に見つかりました。書いた人のことはよく分かっていませんが、この言葉がその頃にはすでに使われていたことがわかります。そのことから桐生の人たちだけが自慢で言っていたわけではなく、全国的にも認められていたフレーズだったと考えられます。
この言葉には、桐生が日本の織物文化を支えてきたという誇りと自信が込められているのです。
ー「織都 桐生」ー
群馬県桐生市は、昔から織物づくりが盛んで、「織都(しょくと)」=“織物の都” とも呼ばれてきました。桐生市が「織都(しょくと)」と呼ばれていることは地元の人にはよく知られていますが、実は「織都」という言葉は辞書(広辞苑)には載っていません。全国的に使われている言葉ではないようです。
「織都」という言葉のいちばん古い使われ方を調べると、1901 年(明治34 年)に出た本で、京都の人が「我が織都」と書いていたのが最初の例でした。しかしその後、京都を「織都」と呼ぶことは少なく「染織都市」などの別の呼び方が多く見られました。
一方、桐生市が「織都」と呼ばれた最初の例は、1934 年(昭和9 年)の鳥瞰図『織都大桐生』と、市の歴史をまとめた本『桐生市略史』の中に見られます。ここでは、「桐生の名前は海外にまで知られている」とも書かれていました。
このあと、足利市(栃木県)、秩父市(埼玉県)、八王子市(東京都)、福井市(福井県)、米沢市(山形県)、伊勢崎(群馬県)など、いろんな都市が「織都」という言葉を使いはじめました。当時は「染織都市」や「製織都市」などの言葉も使われていましたが、今ではあまり見られません。
昭和のはじめごろ、多くの町が市になる中で、「都(と)」という字が都市の名前として人気になったと考えられます。
「織都 桐生」という言葉には、桐生の人々が織物にかけてきた歴史と誇りが、今も息づいています。